やけくそお寿司マジック

インターネット原産です。気がついたときに更新。

「毒親」がブーム化する世界線らしい【考える日】

昨今、「毒親」や「親ガチャ」などの単語がニュースに取り上げられる様になった。
話題になってからは久しいものの、未だその勢いが衰えることはない。
だが、我々は話題に挙げられた単語を上辺だけの意味で受け取り、気軽に使いがちである。
その本質まで行かずとも、もう少し深く知ることができれば、より正しく状況を理解し、知識として使用することが可能となり、説得力が増す。ということだ。

今回は「毒親」という言葉がブーム化しているという事実を詳しく考えたいと思う。

ウィキペディア曰く、

毒親論は、その単純明快さもあり、アダルトチルドレン論をしのぐほどのブームになった。斎藤学は、昨今の「毒親」ブームは、親を毒親とそれ以外に二元論で分けて糾弾し、過去と親にばかり注目し、一番大切な自分の現在と未来に目を向けない傾向などの問題があり、毒親本では「これからどうすればいいか」がおざなりにしか語られないと述べている。

などの記述がある。

この記事を読むに当たり、そして、自ら深く考え、その意味を自身で理解を深め、知識としてこの言葉を使うためには、やはり一度ウィキペディア読んでもらうことが適切だと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%92%E8%A6%AA


ここで我々が考えるべきは、「毒親というワードよりも、その後の人生をより良くするためのことを考えるべき」だと思う。

ウィキペディアを一読した私が要約するとすれば、大切なことは、「自身の親が毒親か」ではなく、「毒親であるなしに関わらず、今後の人生において、自身は親といることでメリットがあるかどうか」だと思う。

過去というのは、もう不変の事実として並んでいるに過ぎない。
確かに過去の問題を分析し、学ぶことも大切だ。だが、毒親の場合、過去というのは呪縛的にしかならない。
結局、分析が役に立たない感情に振り回されたり、呪うことしか出来ないことの羅列、連続した事実、もうどうしようもないことたちにすぎない。つまり、思い出すほど苦しむので、考えるだけ無駄ということだ。
(こう言ってしまうには、少し批判的すぎる、あるいは冷たくも思えるが、そうしないと過去との決別は難しい。ときに必要な冷たさとわかってもらえれば幸いだ。)


つまり、我々は過去から決別し、その「毒親」というワードに含まれる呪い、あるいは負の思い出から脱却することこそが大切なのであって、ワードそのものは、便宜上の名前として扱うのが、この言葉の正しい使い方だと思う。


この言葉を使う際は、思い出を語るためのまとめにするよりも、「毒親だったけど、~~~で今はこんな風に生きています」というように、切り口として使うのが効果的なのではと思う。

実際、精神が傷ついている者が多い毒親育ちは、暗い話などを聞きたくない人もいるだろう。
だからこそ、そういった者たちに明るい話をする前の簡易的な前座、過去の思い出をダラダラと語りたくないときの言葉として使う。
それが効果的だと思うわけだ。

だが、精神、倫理的な一理論の名前としては、非常にわかりやすい、とっつきやすいと言える。
だからこそのブーム化であるし、ウィキペディアをにもあるように、独り歩きさせては行けない。

むしろ、精神科的問題を「ブーム」などと言うのは、少々軽視し過ぎなような気もする。

精神的問題が流行るということは、それだけ心当たりを感じる人間が多いということで、それだけ問題の母数が増えているということは、問題が解決されていない人間が多いということ。

これこそが、「毒親」ブームにおける最たる問題なのでは無いだろうか。