やけくそお寿司マジック

インターネット原産です。気がついたときに更新。

「ある」側、「無い」側

世界には「ある」と「無い」という概念が存在する。
自分には「ある」、「ない」等。そういう概念。
残念ながら、この世にはそれが人生を左右することが往々にしてある。
私は現時点でわりと「ない」側の人間なので、具体的に「ある」と「ない」を具体化すると、

「ある」側
・公共交通機関がある
・整備された大きな道路がある
・住宅地がある
・人がいる
・学校がたくさんある
・施設(美術館、博物館、図書館、ジム等)が選べる
・才能がある
・金銭がある
・仕事が選べる

「ない」側
・公共交通機関がない
・細い道路、ひび割れた道路、獣道しかない
・家がない
・人がいない
・学校がない、選べない
・施設がない
・才能がない
・金銭的余裕がない
・仕事が選べない

具体的、と言ってもだいぶふんわりしているので、もっと細かくすると

・信号機から音が出る↔信号機が無い
スクランブル交差点↔横断歩道が無い
・歩く↔歩けない、歩いてはいけない(歩くと危険な場合、時間がある)
・駅徒歩XX分↔駅がない、バス停がない、両者に歩いていけない

などなど様々 。

インターネットが普及したからと言って、これら全てが解決したか、或いは完全に解決することができるかと言われれば、「No」だろう。

こういった、「生まれながらにして場所を選べないからこそ生じる差」に、成人しても苦しめられることがあり、そこから抜け出すことがどれほど大変で、周囲の大人たちの心配や反感を未だに買っているか、「ある」側の人間は知ることすら無いということが、私は憎くてたまらない。

私だって、「成人すれば全部自分で解決できるようになる」と思っていた。
だが、事実としてそんなことはなかったのだ。
生まれながらにして、「ある」暮らしをしてきたものと、「ない」暮らしをしてきたものとでは、雲泥の差が埋まらない。スタートラインが違うのだから、当たり前である。
ましてや、成長すればするほど、視野は広くなり、出会う人間が増えれば増えるほど、「ある」側の人間をまざまざと見せつけられる。
そうして自分にどれほどのものが「ない」かを知り、「ある」ことが当たり前に思っている人間のどれほど多いことかを知り、憎しむ。

こうしてみれば、時代は進めど、「ある」側と「ない」側は、形を変えただけど、その間にある差、間の距離は何一つ縮まっちゃいない。これからもずっとそうなのだろう。

「ある」側は「ない」側の暮らしを知った時、その差を知った時驚くが、「ない」側からしてみれば、バカにされているようで気がすまないし、ましてやそれが全く自分のせいではないのだから腹が立つ。

好きで「ない」側に生まれた訳では無いのに、「ない」暮らしを「信じられない」とバカにされ、テレビやネットでは「ある」暮らしがさも当然のように語られ、大人たちの「お前には無理だ、大変だよ」と諭すフリに足を引っ張られ、ようやく「ある」土地に住処かを変えても、生活の端々や知識のなさがにじみ出て、「ある」側の受けてきた教育には追いつけず、幼い頃の「ない」暮らしや教育を憎みながら生きることの、その悔しいこと。
その全てを理解できない人間がいることの憎たらしいこと。

そして、その全てを隠して、同じ「ある」ふりをして話さなければいけないことがあると言うのが、どうにも私は我慢ならなかった。

インターネットが大好きな私が、唯一憎いと思うところだ。